50問50答集

2 学会による52年の教義逸脱問題とは、どのようなものか

(時局協議会文書作成班5班「創価学会の52年路線とその破綻」より)


55年路線は、学会の「学会主、宗門従」という本末顛倒の強い指向性があって、そこから宗門の伝統教義からの逸脱等、様々な問題が派生したものである。

1.創価学会の宗教法人設立時の宗門に対する約束

本来、日蓮正宗の信徒団体である創価学会が、独自の宗教法人を設立するということは、同一宗内に二つの宗教法人ということになり、まことに不自然な形態となる。しかし、それにもかかわらず、創価学会の法人設立が、宗門から許可されたのである。その法人設立の意図について、戸田第二代会長が、以下のように説明している。

「我々の折伏活動が全国的活動となり、邪宗との決戦に至る時の大難を予想し、本山を守護し、諸難を会長の一身に受ける覚悟に他ならない、ということ。二つには、将来の折伏活動の便宜の上から宗教法人でなければならない。」
(『聖教新聞』昭和26年12月20日)

以上の理由によって、学会の宗教法人設立は、宗門から許可されたのである。ただし、この時、学会は宗門に対して、以下の3項目を遵守することを約束したのである。

①折伏した人は、信徒として各寺院に所属させること。
②当山の教義を守ること。
③三宝(仏、法、僧)を守ること。

この3項目は、以後、宗門に対して、学会が絶対に破ってはならない原則として、約束されたのである。そして、この3項目は、昭和47年の正本堂建立の時までは、著しい違背もなく、守られてきたのである。しかし、正本堂建立以後、学会の体質は大きく変わり始め、日蓮正宗の信徒団体としてのあるべき姿から、大きく逸脱し始めたのである。そして、そのピークにあったのが52年路線である。

創価学会の52年路線とは、守ると約束した3項目の原則を、様々な方面から色々な方法で、ことごとく破った路線であるといえる。

(時局協議会文書作成班5班「創価学会の52年路線とその破綻」より)

昭和52年1月15日、池田大作は「仏教史観を語る」と題して、
「大聖人直結(途中の人師・論師は不要)」「会館は現代の寺院(日蓮正宗の寺院は不要)」「在家でも供養を受けられる」などと公言しました。これを皮切りに創価学会では、

①何体もの板本尊の模刻
②池田本仏論の思想
③血脈軽視・大聖人直結を強調
④学会を主、宗門を従とし、日蓮正宗を学会の〝儀典係〟化
⑤『人間革命』は現代の御書
⑥供養と偽り特別財務等の大規模な募財を推進
⑦邪宗の祭りへの参加などの謗法容認

等の教義逸脱、独自路線を走り始めたのです。これがいわゆる「昭和52年路線」「第一次教義逸脱問題」です。

これに対して、日達上人は「日蓮正宗の教義でなし、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、決して、我々は喜ぶべきでないし、大聖人が、お喜びになるとは思いません」(『大日蓮』 昭和49年8月号)と学会の邪義を厳しく破折あそばされました。

その結果、全国で大量の学会脱会者が続出し、慌てた創価学会は、昭和53年6月30日、『聖教新聞』に、教義逸脱を謝罪・訂正した文書、「教学上の基本問題について」を掲載。さらに代表幹部二千名が総本山大石寺に登山して、日達上人に公式に謝罪(同年11月7日 通称「お詫び登山」)しました。

そして昭和54年4月24日に池田大作が会長職を引責辞任した上で、同年5月3日、創価学会としてこれまでの過ちを反省懺悔していく旨、宗門に誓ったことにより、ひとまず、第一次教義逸脱問題に終止符が打たれたのであります。

また池田大作は昭和55年、教義逸脱問題を振り返り、「恩師の23回忌に思う」と題する所感を発表。一連の学会問題の責任は自分にあることを反省し、「永遠に代々の御法主上人猊下を仏法の師と仰ぎ奉り」(『聖教新聞』昭和55年4月2日付)と所信を誓いました。

以上が創価学会の52年路線についてです。
昭和53年の「教学上の基本問題について」(6・30)、「お詫び登山」(11・7)、昭和55年の「恩師の二十三回忌に思う」等によって、創価学会及び池田大作が、これまで何を謝罪し、何を懺悔してきたか、ここに明白でありましょう。

資料
昭和53年「教学上の基本問題について」
昭和55年「恩師の二十三回忌に思う」