50問50答集

37 今も大石寺から下附された日蓮正宗の御本尊を拝んでいる。それで良いではないか

「根源」である本門戒壇の大御本尊様から離れてしまった創価学会に身を置く以上、各家庭の御本尊を拝んでも功徳などあるはずがありません。それはたとえば、木の枝を折って根から切り離してしまえば必ず枯れてしまうのと同じであります。

創価学会 ついに戒壇の大御本尊と訣別(平成26年11月)平成26年11月8日付の『聖教新聞』上で、創価学会が本門戒壇の大御本尊を受持の対象としない旨の発表を行なったことに関する配布用チラシPD...

戒壇の大御本尊は「功徳聚(くどくじゅ)」と申し上げ、あらゆる功徳が備わっており、各家庭において御本尊を拝んで功徳があるというも、その源は全て、大御本尊にあるのです。したがって、戒壇の大御本尊を離れては、功徳はないのです。

学会員の皆さんは、かつて誰もが、「祈りとして叶わざることなしの大御本尊様」という言葉を聞いたり口にしたことがあるのではないでしょうか。
この言葉は、26世日寛上人の以下のご指南が元になっています。

「此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、即ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり。妙楽の所謂『正境に縁すれば功徳猶多し』とは是れなり。是れ即ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり」

すなわち、「この大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるならば、叶わない祈りはなく、生命に深く染みついた罪障を消し果てることができ、あらゆる幸せを招き寄せ、道理として必ず功徳の実証が現われる」と明示された上で、

「この大御本尊こそ、大聖人出世の御本懐であり、この仏法を信ずる人々の対境である」
と仰せられているのです。自らの罪障消滅、幸せを願うならば、この大御本尊の元へ一刻も早く帰伏するべきでありましょう。