創価学会では過去に、現証論を中心とした折伏を展開し世間から猛反発を受けました。そうした中にはたぶんに感情的な罰論や「あんたは〇日後に死ぬぞ」というような傲慢な捨てゼリフを吐いたこと、また葬式の最中に乗り込み「これが仏罰」と得意がって遺族の心情を逆なでしたことや、病人・死人の出た家ばかりを狙って折伏に行ったこと等々―。
はなはだ常軌を逸した言動があり、それが猛反発を買う要因となったことは間違いありません。
しかしそのような非常識な言動は反省すべきとしても、一面、仏法に厳しい現証論が説かれていることは事実です。
「日蓮仏法をこヽろみるに、道理と 証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(全集1468頁)
「夫(そ)れ法華経の意は、一切衆生皆成仏道の御経なり。然りといへども、信ずる者は成仏をとぐ、謗ずる者は無間大城に堕つ」(全集1307頁)
仏法が真実ならば、そこに現証が現れぬはずがなく、創価学会の幹部、会員の中に相次ぐ、事件・事故を見聞きすると、その件数の多さと、あまりの痛ましさ、恐ろしさで目を覆いたくなるほどであり、これには学会内でもかなりの不信が広がっているようです。
こうした影響の大きさに慌てた創価学会では、会員に動揺しないよう訴えていますが、その内容を簡単に挙げると、
「日蓮大聖人の時代においても若くして亡くなる人もいたし、また様々な廻りの迫害によって命を失う人も多くいたのであり、表面的な死というもので判断してはいけない。逆に、そこには何か深い意味があるのだ、と取らなければ信心とはいえない。」
しかし、大聖人は
「此の疫病は念仏者・真言師・禅宗・律僧等よりも、日蓮が方にこそ多くやみ死ぬべきにて候か。いかにとして候やらむ。彼等よりもすくなくやみ、すくなく死に候は不思議にをぼへ候。人のすくなき故か。又御信心の強盛なるか」(全集997頁)
と仰せであり、真実の正法の信仰者は、世間謗法の人々と比較して、ほんの少数が病み、少数が死する、これが功徳であると仰せられているのであり、昨今の創価学会のように、死ななくてもよいところで、それも学会員の信仰と幸福境涯の手本であるべき大幹部が、次々と命をおとしているのとはわけが違うのであります。
ましてや、学会で信仰している人が、謗法の人よりも高い比率で病み、多く死んでいたとしたら論外です。
さらには、何も迫害などされていない、というよりも脱会者を迫害している側の学会幹部の横死が、どうして法難であるなどといえるでしょうか。それは謗法を原因として顕われた厳然たる仏罰の果報であるといわざるをえません。