かつて池田大作は、世間的な名誉について、次のように指導していました。
「今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって、自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。(中略)私ども創価学会員は、位もいらない、名前もいらない、有名でなくともよい、大臣もいらない、また権力もいらない」(『聖教新聞』昭和三十八年八月三日付)
「(ノーベル賞について)そのような栄誉はほしくもありません。また、くださるといっても、受けることもありません。そのような人間が世界に一人くらい、いてもよいでしょう」(昭和四十二年十月十三日 クーデンホーフ・カレルギー伯との対談より)

仏法者として、まことに当然な姿勢でありますが、日蓮正宗から破門され、「魂の独立」とやらを果たした池田は、受章・栄誉を次のごとく自慢するようになります。
「アルゼンチンから五月の大十字勲章をもらったが、これで七つ目である。これが妙法である。信心です。たった五カ月の間に三つの勲章(コロンビア、ブラジル)をもらった。(中略)五カ月間に世界の勲章を三つもらえる人は、これまで一人もいなかった。議員でも何でもない私なのにだ。」(平成二年五月三日)
名聞名利の勲章集めが「妙法である」とは、御書のどこにそのような御教示があるというのでしょうか。さらに池田は、こうした自らの栄誉栄達を喜ぶよう、学会員にも押しつけています。
「平和・文化・教育の活動に対しては、各界から、私にさまざまな顕彰をいただいた。そのまま紹介すると、タイ王国『一等王冠勲章』のほか…(中略=池田への勲章や賞などを得々と自慢)たくさんあると、皆、慣れてしまって、あんまり喜んでくれない(爆笑)。じつは一つ一つが重みをもった意義深き顕彰なのである。」(平成三年十二月二十三日)
こうした有り様を、日蓮大聖人は何と仰せでしょうか。
「名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし」(全集463頁)
「愚人にほめられたるは第一の恥なり」(全集237頁)
この御金言に照らせば、池田大作は、すでに仏法に対する信心を喪失し、魔に魂を売り渡してしまったことが明らかであります。
また、名利の魔物と化した池田大作の、醜悪この上ない自慢話を聞いて、何の違和感もなく大喜びしているような学会員も、すでに仏法の何たるかが分からず、魔の眷属となっている、といえましょう。