50問50答集

41 未来に確約されている衆生成仏の名号が「創価学会仏」である

創価学会は、平成28年11月5日付『聖教新聞』において、会則の改訂を発表しました。今度は”創価学会それ自体が仏”だというのです。少々長くなりますが、同記事を以下に引用します。

今回の改正では、前文に、世界広宜流布を実現しゆく「仏意仏勅」の正統な教団は創価学会しかないことから、未来の経典に「創価学会仏」と記されるとの第2代会長・戸田城聖先生のご指導を加えた。「創価学会仏」の意義について、戸田先生は次のようにご指導された。”大聖人に直結した広宣流布遂行の和合僧団である創価学会は、それ自体、仏そのものであり、未来の経典には『創価学会仏』の名が記されるであろう。”それを踏まえ、第三代会長の池田大作先生は、今夏の全国最高協議会に「御本仏の広大なる慈悲を体し、荒れ狂う娑婆世界で大法を弘通しているのは、学会しかない。戸田先生が『創価学会仏』と言い切られたゆえんである」とのメッセージを贈り、創価学会それ自体が「仏の存在」であることを示した。

この御指導は、学会という和合僧団の出現の意義、宗教的独自性を明確に宣言したものであり、会として未来にわたって踏まえるべき重要な内容であることから、その趣旨を会則に加えたものである。

一読してわかるとおり、この「創価学会仏」なる妄説の出処は戸田城聖の発言である、とされています。その戸田氏の発言なるものが何処に残っているか、というと昭和三十七年十月十八日に行われた座談会の席上、池田大作が「戸田会長から聞いた話」として次のように語っています。

戸田先生がひとことお話になりました。たとえば、こういう大勢の学会人がいても、将来、将来といっても、これはいつのことになるかわかりませんけれども、経文が、また仏が出て説かれるときには「創価学会仏」という仏の名前で出ると。
威音王仏(いおんのうぶつ)といろいろあるでしょう。そういう立場で「創価学会仏」という仏になるというそういう意味の、先生のおおせらしいのです。これは不思議です。(中略)
(威音王仏の威音王という名前も、今で考えれば、当時、あったと考えてよいわけですか、その質問に答えて)そういう代表の仏の人物がいたともいえるし、一つは教団があったともいえるのです。)(『巻頭言・講義集』第三巻)

これ以外に戸田氏の直接の発言記録が見当たらないところを見ると、どうやらこれも、あの「(宗門への)追撃の手をゆるめるな」発言や「あとはお前だ。頼むぞ」とのエレベーター相承と同様、池田大作による戸田発言捏造(ねつぞう)の疑いが極めて濃厚であるといえましょう。

ともあれ、「創価学会仏」なるものが、仏法上、全く存在する余地のない妄説であることを、以下に明らかにしていきます。

まず第1に、池田大作が「創価学会仏」の裏付けとして挙げた、威音王仏の事について。池田は、法華経に説かれる威音王仏を「そういう代表の仏の人物がいたともいえるし、ひとつは教団があったともいえる」(『巻頭言・講義集』第三巻)として、威音王仏を教団そのものの名前(別してはその代表者の名前)であると述べています。
ですが、威音王仏の出典である『法華経不軽品第二十』に説かれるのは、

「威音王佛の壽(じゅ)は、四十萬億那由他恒河沙劫(しじゅうせんまんのくなゆたごうがしゃこう)なり。正法世に住せる劫数(こっしゅ)は、一閻浮提の微塵の如く、像法世に住せる劫数は、四天下の微塵の如し。其の佛(ほとけ)、衆生を饒益(にょうやく)し已(おわ)って、然して後に滅度したまいき。正法像法、滅尽の後、此の国士に於て、復(また)佛出(い)でたもうこと有りき。亦(また)威音王如来・應供(おうぐ)・正遍知(しょうへんち)・明行足(みょうぎょうそく)・善逝(ぜんぜい)・世間解(せけんげ)・無上士(むじょうじ)・調御丈夫(じょうごじょうぶ)・天人師(てんにんし)・佛世尊(ぶっせそん)と號(なづ)けたてまつる。是(かく)の如く次第して、二万億の佛有(いま)す。皆同じく一號(いちごう)なり」(法華経498頁)

との文で、その意は

「威音王仏の寿命は四十万億那由他恒河沙劫である。威音王仏の説いた法は、正法時代、像法時代と、永く世に住して衆生を利益する。そして正法・像法を過ぎて仏法が滅尽すると、その同じ国土にまた仏が出現するが、その仏も威音王仏と号する。こうして二万億の仏が順次に出現したが、皆、同じく威音王仏と号したのである」
というものです。

拝読すればわかるとおり、威音王仏とは、教団の名前でもなければ、その代表者の名前でもないのです。順次に出現した多数の仏が、皆、威音王仏という名を名乗った(つまり、同一の威音王仏という仏が幾度も世に出現したか、あるいは順次に出現した仏が同じ名を名乗ったか、のいずれか)ということに他なりません。

これを池田は、同じ時空に存在する集団の名前を威音王仏と称したかのごとくスリ替え、「創価学会仏」へと結びつけようとしたわけであります。

第2に、末法時代に新たな仏が出現する余地があるかどうかについて。
前の『不軽品』の文を見ると、1人の仏が出世して法を説いた後、正法時代・像法時代を経(へ)て仏法が滅尽すると、また一仏が出世して法を説く、というように、仏は「是の如く次第して」世に出現されるのであり、同一の時空に同時に二仏が出世して法を説くことはありえません。

(※むろん、ここでいう「仏」とは、法を説く教主としての仏であり、一切衆生に仏性が具わるという意味での、総じての仏を論じているわけではありません。学会では、この両者を故意に混同して述べることで、人々を惑乱〔わくらん〕する手法を使うことがあるので注意)。

それは『涅槃経』にも
「一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二の転輪王あり、一世界の中に二仏出世す、といはゞ、是の処(ことわり)有ること無けん」

とあるように、一仏一国土(一仏が教化する時空に二仏・三仏は出世しない)が仏法の大原則だからであります。

今末法の時代はどうか、というと、『報恩抄』に
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながる(流布)べし」(御書1036頁)

と仰せあるごとく、現在の末法時代は万年を超えて未来の果てまで続き(地球の歴史上では、末法の次の時代が到来することはない)、その教主・一仏は宗祖日蓮大聖人御一人なのであります。

ゆえに、大聖人に続く第2の仏が地球上に出世する余地はありませんし、もし万一、そのようなことがあるとしたら、大聖人の御金言の中にその予証がなくてはならないはずであります(釈尊の法華経の中に、大聖人の御出世が予証されていたように)。
その証拠もなく、新たな仏を名乗る者が現われたとしたら、それは仏法を破壊する魔仏といわねばなりません。

第3に、戸田発言と池田発言の根本的矛盾について。
そもそも、戸田氏が述べた(?)とされるのは、未来のいつの日にか、新たな仏が出世して法を説く時には、その経文の中に(過去の存在として)「創価学会仏」という名が出るだろう、という話ですが、池田らが言うのは、この未だ出世してもいない未来の仏の経文を前提に、今の創価学会(あるいは学会の代表的指導者)を仏であると言い切り、宣言する、というものです。

これは、未だ前提が存在してもいないのに、それをゴマカシして結論を導き出してしまう、という、程度の低い詐欺(さぎ)的論法に他なりません。

以上、述べてきたように、「創価学会仏」なるモノは、経典をねじ曲げ、捏造して造り出された魔仏であり、日蓮大聖人の化導される時代の中に迷い出た物怪(もっけ)であることが明らかであります。これ、我等が「創価がっ怪物」と揶揄する所以であります。
このような謗法思想の極まった創価学会からは1日も早く離れ、堕地獄への道から脱れるべきでありましょう。

(『慧妙』平成28年12月16日号 PDF)