50問50答集

45 謗法厳戒を貫いてきたのは創価学会のみだ

学会では、日蓮正宗に対して「戦前の宗門は謗法だらけ」「宗門は国家権力に屈して法義を曲げた」等の邪難を浴びせ、「謗法厳戒を貫いたのは創価学会だけ」などと言っていますが、これについて『人間革命』を挙げて破折します。

さらに、これよりまえ、猊下(※日恭上人)はお1人で文部省を訪れた。身延との合同問題が、国家権力の強圧のもとに、実行にうつされるばかりになっていた。猊下は、単身、当局に向かって「合同、不承知」を、厳然と宣言して帰られたのである。
日蓮大聖人の、正法正義を継承する本宗は、断じて邪法邪義たる身延をはじめ、いかなる宗とも、絶対に合同はせぬ…と。その毅然たる態度、迫力に、役人たちは驚いた。
なおも猊下は、たとえいま、頚(くび)を切られてここに死すとも合同せず、と叫ばれて、ここに正宗の法水を護りぬかれて帰られた。
じつに、日蓮大聖人の、幕府権力に対決した時のお姿が、そのまま拝されるのである。(『人間革命』)

この『人間革命』の記述は、当時の史実に基づいており、まさしく日恭上人が身命を賭して正法正義を護られたからこそ、日蓮正宗が現在まで続いており、また創価学会も興隆してこられたのであります。どこに批判の余地があるでしょうか。

さて現在の創価学会では「謗法厳戒」を早々に放棄し、以下のように指導しています。
平成7年11月17日に発表された「SGI憲章」の中には、

「SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく」(『大白蓮華』H7.1-50頁)

との条目が制定され、この憲章に沿うようにして、創価学会関西広報局文化部長の秋庭洋が、天台宗や高野山真言宗、浄土真宗本願寺派、日蓮宗、天理教や立正佼成会、PL教団、円応教、金光教泉尾教会、新宗連などの諸教団等を訪ね歩き、”邪宗・邪教と排撃(はいげき)してきたのは、日蓮正宗の教義に拘束されていたから。たいへん申し訳なかった”などと詫び、”今後は、こうした姿勢はとらないので、誼(よしみ)を通じていきたい”と懇願して回ったことが、週刊誌等によって報じられました。

またそれまで対立関係にあった立正佼成会に〝和解〟を申し入れ、これまで他の宗教団体と接触してこなかったのは日蓮正宗の指導方針があったため。日蓮正宗から独立した以上、他宗教と交流を深めていくのは当然として、佼成会のみならず、他の宗教団体とも共存共栄を図る方針を明らかにしたことが、『毎日新聞』(平成6年2月27日付)によって報じられました。

平成九年には、

謗法払いについては、あくまで原則どおり、本人処分であることには変わりはありませんが、御本尊を安置するための絶対的前提条件ではありません。謗法払いしてからでないと御本尊を安置してはいけないという考え方を変え、もっと幅広く、まず御本尊を安置し、拝み始める。そのうえで信心が深まって、古い対象物は置きたくなくなる。そうなってから、自発的に本人がそれを取り除くようにしてもかまいません。 ―― 中略 ―― したがって、神棚(かみだな)や仏具等を取り除く必要はありません。(秋谷栄之助『聖教新聞』H9.2.11)

これは御本尊を神札や阿弥陀仏などと一緒に祀ってもよいということで、この信仰のありかたは、天台大師や伝教大師が説かれた迹門熟脱の法華経の修行、すなわち摂受です。末法の本門下種の仏法は折伏であることは、明々白々のことであり、日蓮大聖人様の教えに真っ向から違背することは明らかです。その後も、

もし宗教目的に賛同して、他宗の本尊や神体を信じて拝むのであれば、それは謗法です。しかし、町会や自治会の一員として、仮に宗教的色彩のある祭りなどの行事に参加しても、信じて拝むのでなければ、謗法にはなりません(秋谷栄之助『聖教新聞』H11.9.9)

祭りにおいて、御輿を担がざるをえない場面があったとしても、地域役員として宗教色の濃い儀式等に立ち会わざるを得ない場面があったとしても、それは地域の文化行事への参加と同次元のことです。“一種の文化祭”と名付けた学者もいた。それをもって、ただちに謗法とは言えません。」(秋谷栄之助『聖教新闇』同日付)

このように創価学会では、謗法厳戒を貫いてきたどころか、自らの堕落・謗法化を糊塗(こと)するため日蓮正宗への誹謗中傷を繰り返しているというのが今の創価学会の姿なのです。