脱会者の体験談

知らないうちにニセ本尊が!学会時代に発症していた妻の業病 森安勤さん

いつの間にかニセ本尊に交換されてしまっていた

私は、昭和五十年に創価学会を通じて日蓮正宗に入信しました。その後、昭和五十五年に結婚し、それを機に妻を入信に導くなど、信心に励んだ時期もありましたが、仕事の忙しさから次第に信心から遠のいてしまいました。一方、妻の方は、私とは逆に、学会活動にのめり込むようになっていきました。

そして、その後、創価学会は日蓮正宗から破門され、大謗法団体となったわけですが、信仰そのものから遠のいていた私は、まったく、その状況に気づかずにいました。

そのような状況の中で、あろうことか我が家の御本尊様が、いつの間にか学会版のニセ本尊に交換されてしまったのです。

今振り返ってみると、その頃から、家庭内にさまざまな問題が起きるようになり、家族もバラバラになっていきました。そして、ニセ本尊に交換して七年目の平成十九年五月、恐ろしい罰が現われました。熱心に学会活動をしていた妻が、脳溢血(のういっけつ)で倒れてしまったのです。

この事態に、わけがわからなかった私は、きっと自分が信心を怠(なま)けて題目を上げていなかったせいだ、と思い、ニセ本尊に向かって、毎日、一生懸命に題目を唱えて妻の回復を祈念するようになりました。

妻は、懸命なリハビリによって一旦は回復したものの、その二年後に二度目の脳溢血を起こしてしまったのです。この時は前よりも重篤(じゅうとく)で、命だけは取り止めたものの、妻は、歩くことも、普通に話すこともできない身体になってしまいました。そして、時間の経過とともに、骨はボロボロになり、筋力も衰えていきました。

そのような状況にあった平成二十二年十月、妻の友人だった川元さんが、講中の先輩と共に我が家を訪問してこられました。お二人から創価学会の誤りについて聞かされ、我が家の仏壇の中を確認してもらったところ、ニセ本尊に替えられていたことがわかりました。

まさか御本尊様がすり替えられていたなどと、夢にも思っていなかった私は、本当にショックでした。そして、ソファーに横になっている妻に、「ニセモノの本尊じゃ、いくら祈っても病気が良くなるはずがなかった。学会を辞めて、本来の正しい信心に戻ろう」と言いました。

妻も素直にうなずき、次の日に、二人でさっそく勧誡を受けました。すると、その直後に行方不明になっていた次男の居所がわかる、という功徳をいただき、一週間の間に、長男、長女、次男が次々と勧誡を受け、家族皆で日蓮正宗に戻ることができたのです。

こうして、バラバラになった家族が、御本尊様のもとで再び一つになれたことに、妻は本当に喜んで、涙を流し、出ない声を振りしぼってお題目を唱えるようになりました。

幾たびも命がけで登山

話は前後しますが、私は学会時代には一度しか総本山に参詣したことがなく、妻に至っては一度も登山したことがありませんでした。

大御本尊様の絶対の功徳と、猊下様の御徳を教えていただくにつけ、家族皆で登山したい、
車イス生活になった妻も何とか連れて行ってあげたい、と願うようになりました。

そして平成二十四年に、レンタカーを借りて、福岡から家族揃って初めて登山して以来、時間をつくっては家族で総本山に参詣するようになりました。

福岡から総本山までは、往復二千キロを超す道のりです。ワゴン車の荷台に布団を敷き、そこに妻を横たえて総本山を目ざしました。往復でまる二日、ほとんど走り通しの道中は、妻
にとっては厳しい道のりだったと思います。途中で熱を出したり、血圧が上がって苦しむこともありました。しかし、それでも妻は、毎回、自ら願って登山しました。

こうして、妻の信心はどんどん深まり、うまく話せない口を使って、お見舞いに来てくれた人や、学会時代に入会させてしまった友人達を折伏するようになりました。

また、こうした妻の姿や、御本尊様の有り難い功徳を目(ま)の当たりにして、学会時代には信心を嫌って仏壇の前を素通りしていた長女ですらも、友人達を折伏したり、地域の学会員を探しては折伏に回るようになりました。

そのような中、三年前の支部総登山に参加して帰ってきた翌日のこと、妻が高熱を出して、緊急入院してしまったのです。

当初は、疲れが出たのだろうと思っていたのですが、検査の結果、思ってもいなかった病名を告げられました。妻は、多発性骨髄腫のベンズジョーンズ型という、骨のガンにかかっていたのです。それもすでに末期になっており、余命はわずか一ヶ月と告げられました。しかも、発病したのは、おそらく二十五年くらい前だろう、というではありませんか。

二十五年前と言えば、妻が熱心に学会活動をしていた頃です。この病名を告げられた時、私は、ただただ学会に付けてしまった妻に申し訳なく、「大御本尊様にお詫び申し上げて、何としても妻の病気を治していただこう」と思いました。

そして、さっそく登山する予定を組んでいたところ、その話は講頭にも伝わり、御住職を通じて御秘符を申請してくださった上、東京にいる私達の支部長さんが一緒に総本山に参詣してくださり、御開扉の後、富士宮の理境坊出張所で御秘符を服させていただくことができました。

その結果、有り難くも妻の容態は回復しはじめ、余命一ヶ月だったはずが、なんと二ヶ月後には退院するまでに回復してしまったのです。

その後、妻はケアハウスに入所しましたが、一週間に一回は自宅に戻って、講中の会合にも参加していきました。そして、妻は、未入信だった自分の母親を、必死で折伏しました。最後は声を振り絞って「お母さん、一緒に信心してほしい。一緒にやろう」と訴える妻に、母も涙を流し、入信を決意したのです。

その頃には、妻は喉(のど)の筋力まで弱ってきて流動食となっていましたが、ほとんど
痛みも苦しみも無く、これまでにないほど穏(おだ)やかな日々を過ごしていました。

娘も突然の病魔を超克

そのような中の平成二十五年四月、支部総登山を目前に控えていたある日、今度は、長女が、難病である成人スチル病にかかった上、血液にも異常が出て悪性リンパ腫の一歩手前という、大変な事態に陥(おちい)りました。

医師からは「遠方への旅行は命の危険があるから許可できない」と強硬に制止されましたが、日頃、困難な中を登山していた母親の姿を見ていた娘は、この病魔に屈することなく、自ら医師を説得して、入院中の病院から命がけで総登山に参加しました。

そして、下山してから病院に戻って検査してみたところ、なんと血液の異常は解消し、スチル病も劇的に快方に向かう、という大功徳をいただくことができたのです。
この大現証を目の当たりにして、私達家族の御本尊様に対する信心はいっそう深まりました。

その後、七月に入って、また家族揃って御登山しましたが、その時の妻は本当に血色も良くなり、顔立ちも格段に整って、表情まで豊かになっていました。

後から聞いた話ですが、そのとき支部長は、あまりに綺麗(きれい)になった妻の様子に驚いて、講頭に報告したところ、講頭から「それは、もしかすると、身体が臨終の準備を始めているのかもしれない」と、不思議な事を言われたそうです。

それから一ヶ月余りが経過した平成二十五年の九月、妻は高熱が続いて、再入院となりました。熱の原因は多発性骨髄腫によるものだろう、ということでした。

病院では、一年前、すでに多発性骨髄腫の末期だったことを挙(あ)げて、「あの状態から一年も延命していること自体、奇跡としか言いようがありません。それに、普通なら激痛があって、モルヒネを使っても七転八倒するはずなのに、奥さんはほとんど痛みも訴えていない。このようなことは、普通、ありえない」と言っていました。

多発性骨髄腫という病気は、最後には癌が神経にまで到達して、脳も穴だらけの状態となり、耐えがたい激痛に襲(おそ)われることになるのですが、妻の場合、記憶も明瞭で、苦しむこともなく、医師も「脳がやられていないのが、本当に不思議だ」と驚いていました。

とはいえ、ここまで延命を重ねてきた妻の身体は、もう限界に達しており、最期の時が近付いてきていました。

総本山からいただいた御秘符を妻に服させることができ、家族はもちろん、福岡や東京の先輩・同志の方々も共に唱題してくださいました。本当に心強く、有り難い思いでした。

こうして、平成二十五年九月十七日午前一時五分、皆が唱題する中、妻は静かに臨終を迎えました。

私は、かねて『臨終の作法』で学んでいたとおり、妻の耳元で「やっちゃん、ただいま臨終ですよ。大聖人様が迎えに来られますよ」と告げました。本来なら、激しい痛みを和(やわ)らげるためにモルヒネを大量に使わなければならず、その副作用で意識もなくなって死に至るはずのところ、有り難いことに妻は、最後まで全く苦しむことがありませんでした。

また、死後数時間は、命がそこに留まっており、神経も鋭くなっているため、むやみに遺体に触れると耐えがたい痛みを感じる、と聞いていましたので、私は、病院では妻の身体を拭いてもらうだけにとどめ、その他一切の処置をお断わりして、妻を自宅の御本尊様のもとに連れ帰りました。

自宅では、講中の皆さんが妻を待っていてくださり、布団に寝かされた妻の顔を見て、本当に驚いていました。

妻が現じた成仏の相

日蓮大聖人様は、成仏の相について、
「設(たと)ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。
又軽き事鵞毛(がもう)の如し、軟(やわ)らかなる事兜羅綿(とろめん)の如し」(御書一二九〇頁)
と仰せですが、まさしく妻は、生前は色黒で荒れ肌だったのが、本当にきれいな色白の肌になっており、とても穏やかな半眼半口(はんがんはんく)で、手足のむくみも、ほとんどなくなっていました。

また、本当に成仏できた場合は、死後硬直も起こらないし、腐敗臭すら出ない、と教わっていましたので、私は葬儀屋の勧(すす)めるドライアイスも死に化粧も断わっておりました。そして、妻の枕元で真剣に唱題していきました。

すると、翌日、通夜が終わる頃には、少し残っていたむくみも完全に引いて、身体は、硬直するどころか、なおさら柔らかくなっていて、むろん臭(にお)い一つなく、まるで微笑(ほほえ)んでいるかのようでした。私は思わず妻に、「やっちゃん、成仏できて良かったねぇ。本当に良かったねぇ」と話しかけていました。

日蓮正宗の御僧侶に通夜と葬儀を執行していただいた上、妻の成仏を心から願う多くの人達に見送っていただき、妻は本当に成仏させていただけたのだ、なんと有り難いことだろう、と思いました。

また、告別式が終わり、斎場スタッフが二人で棺(ひつぎ)を持ち上げたところ、不思議なことに棺が軽々と持ちあがりました。妻の遺体はそれほど軽かったのです。まさに「軽き事鵞毛(がもう)の如し」との御金言どおりでした。

その後、私は、火葬の後にも、仏法の凄さを目の当たりにすることとなりました。

すでにお話してきたとおり、妻は多発性骨髄腫という骨のガンによって重い骨粗鬆症(こつそそうしょう)になっていました。ですから私は、もろくなって、粉々になった遺骨に対面するものとばかり思っていました。

ところが、火葬された妻の遺骨は、まるで標本のようにきれいな状態で出てきたではありませんか。頭の骨から、両手・両足の骨に至るまで、真っ白で硬く、重く、しっかりしていたのです。

ある方が驚いて、「まるで珊瑚(さんご)のようにきれい。こんなきれいな遺骨は初めて見た」と言い、妻の病気のことを知らない火葬場の人までもが「五十四歳にしては、若々しい、きれいな骨ですね」と感心していました。

私達家族は、日蓮正宗に帰伏してからというもの、本当にたくさんの功徳を頂戴し、また御本尊様に守っていただきましたが、もし、創価学会に残っていたら、妻の成仏もなく、本当に悲惨な人生を送っていたことでしょう。

この御本尊様の大恩を忘れず、唱題を根本に、亡き妻の分も折伏・育成に励んで御奉公してまいります。