50問50答集

28 創価学会には信心の血脈が流れているから成仏できる

『生死一大事血脈抄』に

「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり(中略)信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(全集1336頁)

とあり、大聖人の弟子檀那は、「総じて」、生死一大事の血脈を拝受することができると仰せになっています。

創価学会では、この御金言の一部のみを強調して「信心さえあれば誰にでも血脈が流れる」「創価学会の信心にこそ血脈が流れている」などと主張しています。

しかし日蓮大聖人は『曾谷殿御返事』に

「又是には総別(そうべつ)の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず、輪廻生死のもとゐたらん」(全集1055頁)

と戒めておられ、現在の創価学会のように総別の二義の立て分けを混乱して、別しての「法体の血脈」を否定し、総じての「信心の血脈」だけを強調することは、成仏どころか、堕地獄の業因となります。このことについて、わかりやすい説明がありますので引用したいと思います。

<昔の学会指導>

◆よく信心の血脈を問題にする者がいる。『生死一大事血脈抄』に「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」とある文をもって、信心さえあればよいとする立論である。
誰でも自由に継承できるなどというのはこれだ。(中略)有名無実の信心をふりまわして、付嘱相承を否定するは、総別の二義に迷惑し、師弟相対の深義に暗く自ら混乱を好む仕わざではないか。(『大白蓮華』S41.9)

◆この(生死一大事血脈抄の)御文は、別しての「法体の血脈」を大前提としての、総じての「信心の血脈」について、お述べになったものと拝される。(中略)
ゆえに「法体の血脈」と「信心の血脈」を混同するようなことがあってはならない。(『大白蓮華』S55.3 69頁)

◆血脈については、法体の血脈と信心の血脈等がある。御書に『生死一大事血脈抄』がある。その冒頭に「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」と仰せである。これは別しては日蓮大聖人の御内証そのものであられる南無妙法蓮華経の法体が生死一大事血脈の究極であるとの意味である。

この別しての法体の血脈相承は『身延相承書』に「血脈の次第日蓮日興」と仰せのごとく、第2祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人が伝持あそばされるところである。

同抄に「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の御文は「別して」の法体の血脈を大前提としての「総じて」の信心の血脈を仰せなのである。(池田大作「教学上の基本問題について」『聖教新聞』S53.6.30)

◆「日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。
また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。
外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。

法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである。すなわち『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』なのである」『広布と人生を語る』(8ー228㌻)

と指導していました。現在の創価学会はどうでしょう。かつての池田大作の言葉をそのまま借りれば、まさに「いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はない」のであります。