宗門としては、これまで僧俗の上下関係をことさらに強調して述べたこともありませんでしたし、そうした必要もありませんでした。なぜならば、日蓮正宗の僧俗が師弟の関係にあることは本宗伝統の宗風気質であり、あまりに当然過ぎて疑う余地もなかったからです。
しかるに、今日の創価学会は執拗に僧俗の差別と大騒ぎし、時にはアパルトヘイトと同一視するやり口を展開しました。
そして、いかにも自分たちは民主的で、宗門は時代錯誤の封建主義的・閉鎖的・権威主義的であると決めつける宣伝を繰り返し、会内の純真な信徒や社会にまで、宗門の悪印象を与えることに躍起になってきたのです。
この経過から明らかなように、僧俗の立場において、どちらが上でどちらが下というきわめて差別的視点から議論を仕掛けてきたのは、じつは創価学会側なのです。
そして、その本音は、本宗の伝統的な僧俗の関係を破壊し、学会が上で宗門が下という形—要するに、宗門を学会の下部組織として組み入れて支配しようというものでした。
その証拠に、当時、宗門を「権威主義的」として学会に追従していった脱落僧たちは、学会にとっては「権威主義を脱した立派な御僧侶」であるはずですが、この人達は、結局、冠婚葬祭係としてアゴで使われるか、さもなくば無用の長物として切り捨てられたのです。そうした脱落僧等に対する学会の出方こそが、学会の理想の僧俗関係なのでありましょう。
さて、日蓮大聖人の仏法においては、本来、僧俗に師弟上下の違いは厳然と存在しております。しかし、それは、人種差別や封建主義的な身分制度とはまったく次元・性質がことなるものであります。
第九世日有上人は『化儀抄』に
「竹に上下の節のあるがごとく其の位をば乱せず、僧俗の礼儀有るべきか」(日蓮正宗聖典九七三頁)
と仰せですが、これは、僧俗ともに即身成仏できるという点では平等ですが、同時に、僧俗の間には師弟・上下の差別が厳然と存在するということです。
これは、たとえば世間の学校や会社において、教師と生徒、社長と従業員とは、いずれも人間としては平等であることは当然ですが、そこに「竹の上下の節のちがい」のごとく立場の違い、差別があるということと同様と言えましょう。