脱会者の体験談

まさに六根清浄の功徳!遊楽の人生を獲得 飯島はるのさん

「こんな人が仏のはずがない」池田大作を不審に思ったワケ

私は、今から五十年あまり前の昭和三十一年に、学会員だったお隣さんからすすめられて、日蓮正宗に入信しました。

その頃の私の家は、主人が病気になって働くことができなくなったため、本当に貧乏をしていました。家には畑もなかったので、食べていくにも困る有り様で、私は、まだ幼かった四人の子供の面倒をみながら、毎日毎日、追われるように内職の仕事をしていました。そんなある日、目が届かなかったことから、一歳になったばかりの末の子供を川で死なせてしまったのです。

すべては貧乏のせいだ、と思い、悔しいやら悲しいやらで、私は、泣いてお題目をあげました。その後もきびしい生活が続きましたが、一日も早く貧乏から抜け出すことを願ってお題目を唱え、子供を育てていきました。

そのような中で、子供たちも無事に成長し、やがて長男と次男とで力を合わせて金型プレスの会社を立ち上げ、成功を収めることができました。主人も、病院の先生がおっしゃったより十五年も長生きして、息子たちの会社が軌道に乗るのを見届けてから、亡くなりました。

私は、この結果を見て、本当に御本尊様は有り難い、祈ってきてよかったと感謝し、それからは折伏に励み、学会の活動にも参加するようになったのです。

ところが、昭和五十二年頃のことです。大石寺に参詣した時に、学会の大幹部が「五重塔は池田先生が建てました」と言うのを聞き、五重の塔は江戸時代に作られたものなのに、そんなバカなことがあるか、と思いました。池田会長という人は、下の人間にそんなことを言わせているのか、と呆れてしまいました。

その後、私は自分の目で池田大作の人となりを見てみたいと思い、他の人たちが皆、かしこまって池田に手を合わせ頭を下げる中、私だけ顔を上げて池田を観察していました。すると、私と眼があった池田が、私を睨みつけるような怖い眼をしてきたのです。こんな眼をした人間が仏様であるはずがありません。

その他にも、いろいろと疑問に思うことが重なって、すっかり創価学会に幻滅した私は、学会の活動をやめて、家で、一人で御本尊様を拝むようになったのです。

正宗に帰伏、家族を次々と折伏 禍転じて福となる!功徳厳然と

そのようにして二十年以上がたった、平成十年暮れのことでした。
学会時代の友達だった黒河さんが、知らない男性を連れて、私を訪ねてきたのです。何ごとかと思ったら、日蓮正宗のお話でした。

その時、一緒に来たTさんから、創価学会が破門になったことなどを聞き、私は大いに納得し、学会をやめて妙観講で信心させていただくことにしました。

翌年の五月には大石寺に参詣して、妙観講の総会にも参加させていただきました。久しぶりの大石寺は本当になつかしく、すがすがしい思いになりました。

折伏の大切さも教えていただいて、家族に話していくと、まず同居している長男が、次には次男と長女が、やがて嫁や孫たちも皆、入信することができました。

そして、その折伏の功徳でしょう、入講して三年がたった平成十三年のある日、私は大変な事故から身を守っていただくことができたのです。

というのは、その日の朝、牛乳を持って自分の部屋のある二階に上がっていった私は、つまずいて、階段の一番上からまっさかさまに落ちてしまったのです。大騒ぎになって、すぐに救急車で病院に運ばれました。

七十八歳という高齢であり、頭から落ちたこともあって、病院でも心配して、大がかりな検査となりました。ところが、不思議なことに、頭にも腰にも何の異常もなく、骨折さえしていなかったのです。

その時、どこで聞きつけたのか、学会員が病院にまで様子を見に来たのですが、軽いケガだと知ると、そそくさと帰ってしまいました。その後、三ヶ月の入院と言われたのですが、ケガの治り方もとても早く、一ヶ月で済んでしまいました。

ところで私は、若い頃、バスにはねられたことがあり、それ以来、左足が不自由になっていました。そのため、いつもカートを押したり杖に頼って歩いていたところ、腰も曲がって、長い距離を歩くことができなくなっていたのです。また、不自由な足を冷やさないように、いつも厚手のズボンをはいて、生活していました。

ところが、この階段から落ちた時のケガが治っていくのに伴い、なんと、具合いの悪かった左足までが、どんどん良くなっていき、杖やカートがなくても、一人で元気に歩けるようになってしまったのです。そして、すっかり丈夫になって、いつの間にか、厚手のズボンもやめて、スカートまではけるようになっていました。

学会員のいや嫌がらせも意に介せず、「怖いのは御本尊の罰だけ」

私は本当に嬉しくて、このご恩返しのために、しっかり折伏していこうと思いました。そして、学会時代に入会させてしまった知り合いや、毎日通っている福祉センターの仲間に電話をかけて、訪問する約束をとっていきました。

やがて、私の折伏により、学会から日蓮正宗に戻ってくる人が出始めると、学会員から嫌がらせをされるようになりました。

私は、毎日、福祉センターの温泉施設に通っているのですが、朝、家を出ると、玄関の前に知らない学会員が待ち伏せしていて、センターまで尾行してくるのです。また、学会の婦人部が勝手に家に入り込んで、私の部屋のある二階にまで上がってきたこともあります。大勢の学会員が家に押しかけて、猊下様の悪口を言って怒鳴り散らす、ということも何度もありました。

しかし、私にとって、御本尊様の罰の他に、怖いものなど何もありません。嫌がらせなど気にせず、折伏に回っていきました。そして、その中で、信心につけた人達が皆、功徳をいただいて、恵まれた境遇に変わっていったのです。

また、ある日、班長から「折伏したい人の名前を書いて一緒に祈っていきましょう」と言われました。私は、知っている人の名前を全部書き出して、御本尊様の前にお供えし、祈っていきました。

その中に、私と同じ名字の飯島はつじさんという人がいました。御祈念するようになって一年がたった平成十七年九月のことです。この飯島さんから、福祉センターで突然、声をかけられました。

「飯島さんは何か信心をしているそうですが、何という宗教ですか?」
と言うので、私は答えました。
「日蓮正宗です。お寺は大石寺です。」
すると、
「どういうことをするのですか?」
と聞くので、
「まず、お寺に行って入信させていただき、その後、しばらくは、朝夕に富士山のふもとにある大石寺の方に向かってお経を読み、お題目を唱えます」
と答えました。

すると、はつじさんは、しばらく考え込んだ後、
「私もやってみたいです」
と言ってきたのです。私は本当に驚いてしまいました。その後、はつじさんは、甲府の正光寺様で御授戒を受けさせていただくことができました。(拍手)

私より十歳若いはつじさんは、まだ現役で働いています。それまで創価学会をはじめ、いろいろな宗教からしつこく誘われたけれど、全て断わってきたのだそうです。ところが、私の話だけは聞いてみたいと思っていた、というのです。私は、一年間、御本尊様に祈っていたから、こんな不思議なことが起きたのだと思いました。

子供達も恵まれた境遇に
眷属と共にさらなる精進を

さて、私の家族ですが、長男は、経営する工場が、不景気の中もずっと仕事が途切れることなく順調に運営できています。後継者にも恵まれて、最近は、成長した孫達が跡を継ぐために仕事をはじめています。

次男は、私が理境坊の行事や妙観講の会合に参加するつどに、大石寺に東京にと、喜んで送り迎えしてくれるようになりましたが、そんな中、地域のボランティア活動で大きな功績を出して表彰され、新聞でも取り上げられました。

長女は、自ら子供達を折伏して次々と入信に導きましたが、そのような中、七年前に開いたパン作りの教室が大成功して、年々、生徒が増え続けています。

私自身も、腰がのび、足も丈夫になったばかりか、眼は前よりよく見えるようになり、耳もずいぶん聞こえるようになって、毎日、元気に過ごしています。

息子たちがくれる十分なお小遣いで、お登山もし、御供養もさせていただいています。長男一家と仲良く暮らし、毎日、福祉センターの温泉に通っては、新しい仲間を作って信心の話をしています。

本当に、何不自由ない暮らしで、昔の貧乏で苦しかった頃のことがウソのようです。
そして昨年は、思いがけず、八十三歳にして班長という役目をいただきました。気がつくと、折伏した家族や友達、そしてその眷属で、七十人もの人たちがこの信心についていました。

私も今年で八十四歳になりましたが、御本尊様への御恩返しのため、これからも班員さんと力を合わせ、先輩方に助けていただいて、体の続く限り折伏に励んでまいります。
ありがとうございました。(大拍手)