創価学会では
「時の貫主(かんず)たりと雖も仏法に相違(そうい)して己義(こぎ)を構へば之(これ)を用ふべからざる事 」(御書1885㌻)
の御文を挙げて、「貫主(法主)も仏法に違背して己義を構えることがあると、日興上人が予見していた」と主張しています。
しかし、日蓮大聖人の仏法の一切を継承された御法主上人が、日蓮大聖人の教えに違背する過ちなど、犯すはずがないのです。
第66世日達上人は、
「『日蓮正宗宗規』に”管長は法門の正邪を決定する”という意味のことが明らかに載っております。血脈を受けてその法門に従って、そして法門の正邪を決めるのは貫首ではないですか。
だから、貫首が己義を構えると考える人はとんでもない考えの人です。それでは血脈相承を受けていない人ということになってしまいます。
血脈相承によって御法門を解釈していくのでありますから、少しも己義を構えるということはないわけであります。」(『日達上人全集』2-17-342頁/『大白法』H16.4.1)と仰せになっておられます。
また第67世日顯上人は
「(そんなことは絶対ないけれども)もしも私が間違ったことを言い出したならば、皆さん方はそれを用いてはいけないのであります。(中略)しかしながら、「用うべからざる事」とあるのであって、直ちに法主の立場にある者に対して反逆し、悪口を言い、謗るということではないのです。
この「用うべからざる事」とは、あくまで受動的な意味でありまして、そこに法華経の本義、すなわち大聖人様から日興上人、日目上人と付属されておる意義が存するわけであります。」(『大日蓮』557号57頁)
と仰せのとおり、もし、万が一「己義を構える」ように思える事柄があったとすれば、それは、表現上の不注意による誤解、伝聞などによる誤解等による場合以外ありえないのです。
なお、『遺戒置文』の次の項には、
「衆議たりと雖も、仏法に相違有らば、貫首之を摧くべき事」(御書1885頁)
とあり、「用う可からざる事」という消極的な表現に対して、ここでは「摧く可き事」と積極的表現になっており、師弟の厳然たる筋目が立て分けられています。
すなわち、弟子分に許されるのは、あくまでも己義を用いぬ事に止まるのであって、これを逆にいうならば、弟子分にある者が貫主(御歴代上人)を摧くことは許されぬ、との師弟相対の深旨が含められているものと拝すべきでありましょう。
しかして、貫主の御教示が正義か己義か、その用否を判ずるのは誰かといえば、何よりも第一に後代の御法主上人が判ぜられ、その説を用いられないのであって、これを余の僧俗大衆が軽卒に用否を決することは、あまりに分限を超えていましょう。
さらに、創価学会が第67世日顕上人の御教示を指して、仏法に相違して己義を構えたと主張しますが、それならば具体的にどのような仏法上の誤りを犯し、己義を構えたというのでしょうか。むしろ数をたのみに血脈相伝の仏法に相違した創価学会こそ、「摧かれるべき衆義」であります。