50問50答集

20 学会は日蓮正宗に莫大な額の御供養をしてきた。学会を大謗法というなら、寄進した寺院と御供養を全て学会に返還すべきである

平成3年に日蓮正宗が創価学会を破門に処したことに対し、創価学会は、「恩知らずの御供養泥棒」などという、およそ信仰者とは思えない非難中傷を展開し、これが現在でも会員の中に根強く定着しているようです。

一般会員には、教義論争より人情や感情論の方が、単純に洗脳しやすく、インパクトがあるからでありましょう。
そうした創価学会流の戦術の1つに、日蓮正宗を不法教団のごとく印象付けるための訴訟があります。

平成14年より、全国規模で多くの学会員が、正本堂を解体撤去したことにより精神的苦痛を被(こうむ)ったとして、大石寺および御法主上人に対して、建設時になした御供養の3倍を損害賠償として求める裁判を起こしたのです。

かつて、昭和47年末頃より、正本堂建立御供養をめぐって、通称「板曼茶羅訴訟」と呼ばれる、御供養返還請求の裁判がありました。

これは、学会退転者が、本門戒壇の大御本尊偽作説を根拠に、騙されて拠出した正本堂御供養を返せ、と訴えを起こしたものです。

この訴訟について、創価学会副会長で創価大学教授の桐ヶ谷章氏は、その著書『信教の自由を考える』において
「そもそもこの板曼茶羅事件は、『供養金』の返還請求事件であったということであります。『供養』というのは、信仰心の発露として諸物や志を仏に捧げる宗教上の行為です。
そのような『供養』を返せということは、そういう宗教行為を後で取り消すということです。いわば、冥加(みょうが)金とかお賽銭(さいせん)とかそういうたぐいのものを、後で信仰が変わったから返してくれというのと同じようなもので、きわめて法律だとか訴訟だとかになじみにくい性質のものであろうと思うのです」(第三文明社発行)
との見解を述べています。

また、池田大作は、
「供養とは梵語Pujana(プージャナー)の訳、供給奉養(くきゅうぶよう)の義で、報恩のために仏法僧の三宝に、身口意の三業により、信心の真心をもって奉ることにほかならない」(昭和40年10月号の『大白蓮華』)

とし、さらに、日達上人が戸田会長のことばを引用した御指南を紹介して、
「(戸田会長が)御供養することは信徒の務めである。もし、それが使途不明であるとか、収支決算せよとか、御供養を出しもしないうちから、初めからそんなことを言っておるのは、信徒の務めを怠っておるものである。信徒は供養することによって利益があるのである。
もし、そのお金を不正に使ったならば、それは、使った僧侶が罪を受けるのである。地獄へ堕ちるのである。信徒は清い供養をすれば、それで御利益がある。経文に照らしても、また、大聖人様の仰せではないか」
と言っていたのです。

このような前言を翻してまで訴訟を提起すること自体、単に日蓮正宗を攻撃する目的であることは、誰の目にも明らかであります。

また、これが、裁判所に本来の法的救済を求めているものでないことは、裁判所にも理解されているところです。

今日の創価学会の論法は、御本尊に奉る御供養は寺院との契約に基づくもの、というのです。もとより純粋な信仰心の発露であるべき御供養を、一般的に行なわれる契約に基づく支払い、と解釈すること自体、すでに信仰が破綻しているとしかいいようがありません。

もし、あくまでも契約だというのであれば、これまで正本堂御供養によって御本尊から戴いた功徳を、どのようにして返還するのか、聞きたいものであります。

また、ひとたび御本尊に奉った御供養を、単なる一般世間の契約金と解釈し、その返還はおろか3倍の金額の請求をしてくること自体、いかに創価学会が金に執着しているかが見て取れるではありませんか。